港町!釜山

釜山は日本にとって最も関係の深い港町だと思っています。
その歴史に大昔のことは省いて、1592年の豊臣秀吉による朝鮮侵略で始まった文禄・慶長の役の時には前進基地や橋頭保として、または補給基地とその役割を充実に果たせた地で有ります。豊臣秀吉軍が撤退するまでその補給基地は一度も絶たされることなく硬く守られていたそうです。
勿論、今は日韓認識の差によりもめことがあると思いますが、歴史は当時に起きた出来ことで今に生きる人が背負っていくものではないと思いますのであまり感情的にならんのが賢い生き方であると思います。

時は流れ、日本は明治維新により経済面でも軍事面でも世界の列強入りを果たし大陸へ進出するため、また当時のロシアの南下を防ぐために朝鮮を合併し帝国日本の領土をしましたがその時釜山は日韓を繋ぐ重要な役割を果たしてました。東京から出発した列車は大阪・下関或いは博多に着きフェリーに乗り換え釜山へ到着し釜山から汽車に乗り換えって京城へそして満州へ行き来しました。
日韓両国が挟んでいる海峡、玄界灘には関釜フェリーが通い、大陸へ行く軍人や移住者と朝鮮から日本へ出稼ぎに行く人たちにより大変賑わったそうですが、そこには未来を夢見る希望やロマンがあった反面生きるために必死だった人たちの苦難の歴史だったとも言えるでしょう。韓国では日帝時代の朝鮮人が関釜連絡船に乗って行き来したことを涙の連絡船と呼んでいますが、それは戦争末期の徴用により戻れなかった人たちがいたからそう思うかもしれませんが、日本へ留学した人も多かったし日本へ出稼ぎに行って財産を気づいた人たちもいたんですから悲劇の歴史だけで語れるものではないと思います。

1965年に日韓国交正常化により関釜連絡船の必要性が提起され1970年に再び関釜連絡船の運航が開始されたそうです。特に釜山は歴史的日本の影響を強く受けた地域でもありまして日本の文化が沢山残っている地域でもあります。近年韓国ではそういうところを開発し観光地として開放してます。
韓国の特に釜山、釜山を知り釜山を楽しみましょう!

砕氷船化される以前の壱岐丸(ウィキーから)

釜山広安里の広安大橋のライトアップ

釜山の龍頭山タワー

太宗台